画家 浜田隆介

詩集

恩 給

桜の花も散り終り、樹々は芽吹き、ビールの味が一段と高まろうという頃に、Kから突然電話があった。
もうKとは三〇年ものがき合いであり、職場も近いのでとき折昼食などを共にしたりしている。
それがいきなり「大将!足許に落ちてるお宝を踏みつけていくのか」と怒鳴るように云うからいささか魂消た。
“大将”というのは彼が学生時代から私に対しての“貴殿”云う意味の敬語?であって私にはタイショー、女房はアーチャンである。
余り唐突なので何の冗談だというと、私に軍人恩給が支給される資格があると云うことを知った、タイショーは今迄何をしとったのか、早速手続をしなさい、とのことである。
一人前に女房子供を抱えて、今まで何の老後保障や蓄財も考えず勝手気ままに、半世紀以上も茫洋と生きてきた私に、せめてこんなことぐらいは為ておかなくてはイカンではないか、バチ当り奴という意味の非難と譴責を含めてか、電話の声が普段より高いように聞こえた。
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何処で仕入れて来たのか、Kの情報によると、太平泮戦争の最中に、国を離れて外地で三年以上軍務に励んだものには、年間四十万円か五十万円の恩給を授かり、しかも五年溯ってその分一時金としてでるのであるそうな。
五年ならば二百五十万円ということになるのである。私は、俘虜生活を含めて五年間、お隣りの国でドンパチしていたのだから、充分にその資恪と権利があるのである。
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買いもしない宝くじに当たった錯覚を覚えた。
これは確かに国家の贖罪義務であり、国家の野望に狩り出された働き奴の権利報酬であるからして、潔く頂戴しましょうとKに約束したが、無為に二週ほど過ぎた。
またKから呼び出しがあったて、いろいろと書き入れて役所に提出しなくてはならない申立書なるものを私に手渡して、「タイショーはよく書き損なうから二通もらって来た、一通は預かっておくから」と云う。
わざわざ府庁まで足を運んで呉れたのである。
感謝の気持は声にならなかった。
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全てが忘却の彼方に埋没してしまっている。四十年昔のことである。極く断片的に浮ぶ影像の記憶から、何時、何処で誰と何をしたかを記載していく作業は、想像外に困難なことである。
一緒に行動してきた者の(現在生存していなくてはならない)本籍、微収日、行動年月、階級を書け、そして間違っていては困るという注意書を読むと、「てやんでえ、てめえの方にちゃんとした記録があるのなら、そっちから該当者を探し当てて“ご苦労様でございました、これは僅少ではございますがが”と持って来い!」と啖呵を切ってもみたくなる。
まことに不遜な感触で、意地と自戒の接点を怠惰に見つめながら、もう二ヶ月余りもグズグズしている自分の気持が、私自身にも理解し難い。
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辞書に「恩給」とはま主従関係に於て、主人から従者に与えられる恩恵行為又は恵物とあり、封建的武家社会に於ける双務的な主従制による御恩(?)とある。
従って主人の権利が強く、従者権利は弱いので、謀反すると取りあげられるものらしい。
(昭和六〇年六月)

第1期
(1983年2月~11月)
第2期
(1985年6月~1986年5月)