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画家 浜田隆介

紹介

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1918(大正7)
12月19日
兵庫県明石市に生まれる。
中之島の大旅館の末子として何不自由なく育つ。堂島幼稚園、御影小学校、灘中学校と進み、東京の美術学校(太平洋美術研究所)で油絵を学ぶ。
1940(昭和15)
12月19日
初年兵として満州へ行く。
1943~44(昭和18~19) 
12月19日
第6回新文展、戦時特別展に出品。
1944~46(昭和19~21)
12月19日
再び招集され、中支へ行く。
1946(昭和21)
12月19日
帰国。
この時の戦争体験は、濱田氏の精神に深い傷を残すことなる。その後、伊丹において演劇活動などをしていたようであるが、詳細は明らかではない。
1958(昭和33)頃
12月19日
琵琶湖西北の安曇川にて、自然の中での自給自足をしながら創作活動を志すが、その地を襲った20年振りの洪水で全財産をつぎ込んだバラの苗木を無くし、挫折する。その後、デザイン、イラストレーションなどを生業としながら10年余り安曇川にとどまる。
1968(昭和43)
12月19日
はぷにんぐ漫画展」。
1968~74(昭和43~49)
12月19日
毎年、信濃橋画廊にて個展。この頃、ハプニング、ジオメトリックアートなどの活動に共感し、作品にも色濃く反映。
1977~81(昭和52~56) この頃から家族と離れて暮らし始め、再び創作活動を始める。
また、アーティストユニオン関係の展覧会に出品。
1986(昭和61) 大阪府立現代美術センターにて個展(1000号展)。本人が生存しているにもかかわらず「遺作展」と称して発表。この時に発表した作品の大部分は85~86年の間に描くが、すぐに第2回遺作展(3000号展)を目指し、奈良県葛城郡のアトリエにて創作生活に入る。
1990(平成2)
9月
病に倒れ、入院。翌年4月に一時退院するまでに、脳、肺、胃などの手術を受ける。
1991(平成3)
4~12月
療養しながら創作活動を続けるが、肝臓の病状悪化の為に再入院。
1992(平成4)
5月1日
家族に看取られつつ他界。享年74歳
1992(平成4)
7月20日~25日
3000号展の開催を期待していた有志により、大阪府立現代美術センターにて濱田隆介個展(2000号展)。
【同個展案内状に旧知の映像作家・松良星二氏が寄せた一文】
-濱田隆介さんのこと-
生前「最後の2000号展」を開くと意気込んでいた濱田さん。脳・肺・胃・肝と4度、死線をさ迷う程の手術に耐えて無事退院されたとき、「人はその生きたように死を迎える」。まだ生が足りなかったのだと喜び、今度はいい画を描くだろうと期待していたのに残念でなりません。
濱田さんは、戦争の時、大陸へ向かう船が沈没して海中に投出され、生きようと願う兵士の相喰む地獄絵を見ました。
その幻相に終生把われていたように思います。画家としてはそれを蔽う虚構が必要でした。しかし濱田さんのそれは余りにも初初しく、繊細で、何かを紡ぎ徹する程強いものではありませんでした。
醜の感性から常に遠ざかろうとした濱田さん、濱田さんの画に泉の水鏡に自分の像を投影させた、少年の澄明な自己愛を感じるのはおかしいでしょうか。画の中の群像は無告の民の悲しみを語っているようでなりません。
1992(平成4)
12月19日
音楽好きな若者の解放区・十三ファンダンゴを舞台に、「無頼派アーチストVSロックミュージック-濱田隆介個展」開催。